昨日写真を撮ってもらった。

エキストラをしてみたくて所属した会社で少し行き違いがあり写真の撮り直しがあったのだ。時間は30分と言われていたがそんなにかからなかった。

出来上がったものを見て再認識したことがある。

昭和初期に生まれた両親は写真に映ることを嫌った。”俺、私はいいから”がカメラを構えるとまず最初に発せられる言葉だ。写りたくないと主張する。もし彼らが物心つく頃にカメラがあればこんな反応はないだろうと思う。そう理解していても一瞬気が萎えたがそこは強引に”みんなの記念だから”と押切りシャッターを切っていた。

出来上がったものをみると嫌だわぁとか言うのにニコニコ顔になる(*^。^*)から毎度のそのやり取りは”フリ”だと思うようにした。

孫や犬と写る両親はとびきり笑顔だった。だからあまりソレを感じることはなかった。

姿見

昨日の撮影で勉強になったことがある。

注意され、初めて自分の瞬きが多いことに気付かされた。意識してみるとシャッターと同時に瞬きしていた。瞬きを我慢して笑顔を作るって難しい。

もう一つ難しかったことはポーズを自分で決めなければならないということ。カメラを姿見と見立ててみてと助言された。

自宅に姿見はあるけれど、自身は上下のバランスと色合いの確認をするくらいだ。かしこまったポーズはしないから今回そのバリエーションの乏しさに困った。家ではどちらかというとふざける。中山きんに君がとるポーズだったり、赤松富士夫作イヤミの”しぇー”ポーズだったり、明石家さんまのパーでんねんの”ぱぁ”だったり(^^♪

姿見の前でするポーズと言われそれやって怒られた(^▽^;)

認識不足?

出来上がったものを帰りの電車で受け取り見たら自分の姿にがっかりした。電車の中で”あぁ、いやだ”と声が出そうになった(;一_一)でも自分を直視しなくてはとその感情に向き合った。

母を思い出した。

鏡の前の母はまるで自分が80代と認識していないような言動が何回かあり不思議に感じたことがあった。そういえば写真を撮って見た時も同じ様な言葉が出ていた。”おばあさんだよねぇ”と。そう認識してないの?とその度に突っ込みたくなったのを抑えた。その時そうなりたくないと思った。今の自分を正確に認識しそれを楽しみたい。

相性

再認識したのはカメラマンに対する自分でも意識しないレベルの感情が写真に映し出されるものなのだということ。表情が柔らかくなったり、少し緊張したりするのは写し手との人間関係が影響するものだと思ってはいたが今回それが顕著に表れた。

昨年暑い日に撮影してくれたカメラマンは柔らかい表情でのんびりした口調で優しく自然に話しかけてくる人だった。リラックスできた。顔の構造が変わるわけではないから人を魅了する作品が出来たわけじゃない。でもそれをみて”いやだ”とは思わなかった。

以前から少し感じていたことだが、今回撮影してくれた責任者(最初から担当してくれた人)とは少しかみ合わないところがあると確認した。写真が今にも逃げだしそうな表情で、涙目なのだ。困り顔。数回注意され顔が強張ったのか。勉強になったけれど表情を作らせなければならないカメラマンとしての力量はどうなのかと自分の能力をさておき(^▽^;)心の奥でツッコんだ( `ー´)ノ

そう思うとモデル、演者を仕事としているプロの凄さを感じずにはいられなかった。どんなカメラマンにでも対応できるのだから。凄いとしか言葉が出てこない。

今は少しずつ変化する自分を楽しみたいと思う。

<後書き>

エキストラを体験したくて登録したけれど、上を目指せ的な事を最後に言われた。趣味としてすることを良しとしないような雰囲気だ。最初面接した時に話したこちらの意図と会社の対応が少しずれてきている気がしている。ただ、前向きに捉えられる挑戦はしてみようとも思う自分もいる。