世の中には似た人が三人いると聞いたことがある。そんなとき頭に思い浮かんでしまうワードがある。ドッペルゲンガー

落ち着かない日々

数年前、2~3年に渡りよく声を掛けられたり、顔を覗き込まれたりしたことが続いたことがある。歩いているときやスーパーで買い物をしているとき。何だか落ち着かない日々だった。長かった。

野球のユニフォーム姿の小学生数人から”こんにちは”と挨拶された。中学生男子からも”こんにちは”。スーパーでは若夫婦、老夫婦に時をあけてまじまじと顔を見られた。覗き込まれた。あまりに続くので不思議というより不快、物凄い違和感を感じた。似ている人は学校で役員をやっている方かもしてない。少なくとも学校と何らかの繋がりがある人だと推測できた。確認してみたくもなったが、いつの間にか”本人”と出会ってはいけないというような感覚を持っていた。

友人

高校時代に背丈、顔の形が似ていると感じた同級生がいる。彼女の方が華奢だし顔のつくりは並んだら違いが分かる。間違われたことはないが自身が彼女と”似てる”とドキッとする時があった。

同級生の中で一番好きだった。彼女もそれが分かっていたんだと思う。高校時代は女子高生特有の感情や行き違いで意地悪されてそのお返しもしたりした。でもそうできる人は彼女だけだった。お互い親元から離れても手紙の交換、互いの家に行き来できる唯一の存在だった。

二人目の子どもの出産まじかになった頃乳がんが分かった。末期だった。手紙の交換はあったが、会いたくても会ってくれずそのまま彼女は逝った。なかなか実感が持てずにいたが、彼女の仏壇を前に声をあげて泣いた。

理性と直感

どうしても浮かんでしまうドッペルゲンガーという言葉。理性では似た人に出会うと片方が世の中から消えてしまうなんてことがあるはずはないと思う。だけど、直感がざわつく。見えない誰か、そして自身を”その人”と間違う人たちに出会わないようびくびくしていた時期があった。実に滑稽だと思う。

文章にする大切さ

いつ頃かは分からない。この文章を打つまでこの友人の死をドッペルゲンガーと重ねていたところがあった。彼女の死が本当にショックだったのだと思う。文章を作る過程でその考え自体非常に彼女と自分に失礼な話だと思えてきた。この出会いを否定することになる。

不思議な現象、説明できない現象がこの世には存在するがこのことと自身の出会いを重ねるなんてナンセンスだと気づいた。知らず知らず自分が自分を縛り付けることがある。今回この感覚から離れることが出来そうだ。