何度かアマゾンプライムで一番上に表示されていた是枝監督の映画「怪物」。
名前通りだと明るい気分にはなれそうになかったから何度かスルーした。でもあまりにそれが目に入るものだから仕事から帰った直後ふとちょっとだけ見る気持ちになりクリックした。以下ネタバレ注意
親の真実
最初ボーっと見ていたが段々引き込まれていった。過去自身が実際体験したり、周囲の環境だったりしたからだ。それもあって”ああ、いじめだ””お母さん、早く気づいてあげて!””茶化すんじゃなく、もっと子どもの話を真正面から受け止めて!”と画面に身を乗り出す勢いで観ていた。
序盤、いじめてたのが担任教師と息子から聞いた母はその言葉を信じ学校に乗り込む。
覇気のない担任教師、暖簾に腕押しの校長、及び腰の取り巻き教師たちに憤慨した。一旦モンスターペアレントと認識されると教師対応が”それ使用”になる。親の話は右から左、具体的な対応をしない。自身もそれにイライラした。担任教師は一貫して煮え切らない態度でのらりくらり、反省もしていないように見えた。むしろ不満を内に秘めているのが透き通って見えた。
実体験があるからこそイライラするのだろう。娘が小学生の頃周りでいじめが実際あった。自分の子どもがいじめを受けていると相談してきたある母親(クラスは違った)の為信用のおける(尊敬している)子どもの担任教師に事情を説明し上手く対応してほしい旨を伝えたことを思い出した。彼女の子どもの担任教師はその報告を受け繊細な対応をしてくれるどころか、とんでもない行動に出た。いじめている本人と彼女の娘を呼び出し廊下で(クラスの目がある中)これは事実かと問いただしたのだ。脳細胞が壊れているとしか考えられなかった。相談した担任教師が謝ってきた。彼女もそういう行動に彼が出るとは思っていなかったようだが謝る相手が違う。自身は信用して案件を預けてくれたママ友に何度も謝った。卒業間近で父親の転勤で移動が決まっていて今のこの僅かな時を何とか乗り越えるわと返事をもらった。本当に申し訳なく思った。
大人になって息子が小学生高学年の頃、同じクラスの男子にいじめられていたことを告白した。母(自身)には言えなかったこと、守ってくれたのは唯一担任教師(上記の信頼のおける、尊敬している担任教師のこと。娘の後すぐ息子の担任になった)が息子を仲間外れにしたりいじめてた男子を羽交い絞めにして阻止してくれ感謝していることを。相談できない雰囲気を自身が出していたことに申し訳なさを感じると同時に彼女に感謝してもしきれない気持ちに今もなる。
こういった経験があるからこそこの映画にハマっていったのだと思う。
教師の真実
切り替えがいつだったのか考えてみると、担任教師が主人公の一人麦野さんを探しに母親と暴風雨の警報が出ている中、山に向かって走っていくシーンだったと思う。その後担任教師側の問題が表現されていた。多分だけれど。
彼も一人の人間として欲があるのに教師だからと生活に制限がかかる。人の目を気にしての生活は大変だろう(息子も経験しているから余計そう思ってしまう)。それでも教師として情熱をもって子どもたちに接していた。
クラスの子どもたち一人一人のエゴが生み出すすれ違いに彼は気付かず、また校長や周りの教師たちの社会への建前というハードルにその情熱がかき消されて行く様が描かれていた。心をすり減らし、表現することも諦め、終いには何も感じないよう閉ざすしかなくなっていった。胸が痛くなった。
子どもたちの真実
相性というのは本当に存在する。言葉が通じやすい人、タイミングが合う人等、仕事でも同じことをチームで作業していても早く終わる相手と時間がかかる相手と不思議とある。相性は意識で変わることはない。ある程度意識で変化は出来るが。全く説明できないものだ。
無邪気に笑い合う彼らはキラキラしていた。純粋に互いの好奇心の赴くまま山を駆けまわったり秘密基地でゲームしたりする中離れたくないと感じ合う。一方がその気持ちを自覚した時の戸惑いが何とはなく理解できた。彼が戸惑いながらも受け止めていく姿が新鮮だった。
周りからは共感、応援してもらえないのかもしれないが”自分の真実”を受け止め前に進もうとするエネルギーを羨ましく思えた。自分にまっすぐに生きるのは案外難しいことなのだ。
怪物の意味
映画の主人公の一人五年生の星川さんが父親から「怪物」と言われる理由は同性を好きになるということらしい。それを矯正しようとする父親の想いは理解できなくはないがそれが不可能だということを知識として入れるべきだしましてや子どもを「怪物」呼ばわりするなんて最低だ。
引き合うものは止められない。たとえ性が違ってようが、幼くてもだ。同性を好きな自分の子どもを「怪物」と呼ぶ親こそ「怪物」なのだ。勿論結びつく時期を諭す必要はあっても引き合うことを否定するのは危険だ。そのエネルギーが負の道へ押し出す恐れがある。その時理解できなくとも受け入れる器を持つ必要がある。
この映画で「怪物」は人ではなく人それぞれのエゴが生み出す”思い込み”なのだと感じた。
一つの物事に真実が人の数だけあること。それぞれ主張することは大切だが相手を尊重し聴く耳を持つということが悲劇を生まない最大の方法だと強く思った。
ただこれは”親側の真実”で一方向からの視点だ。