映画を小学生の時から機会あるごとに映画を観てきたがこれほどとっつきが悪いものはなかった。圧倒的に鑑賞本数が少ないということもあると思うけれど。
それでも賞をとった作品なんだからきっと印象変わってくると信じ暫く我慢して観ていた。イライラする時間が長かった。自分に酔った姿、限定的な言葉、押し付けられた感覚が不快だった。そんな時間を持つことがオカシイと思ったから早送りした。音を出さずに五倍速で。当然何も伝わってこなかった。
数日たったある日他に観るものがなかったこともあって、賞をとった理由を探すため心してみることを決めた( 以下ネタバレあり)。
笑顔
冒頭、全裸で詩的な言葉を抑揚の無い声で語る人物たちに気分が悪くなったのは変わらなかった。見返そうとは今は思わないシーンだ。全裸であってもセクシーではなかった。美しいとも感じなかった。喜怒哀楽を感じなかったからかもしれない。何見せられてるんだろう感が半端なかった。無表情の中にも何かしら感じるものがあるものなのだけれど、全くなかった(それが”フリ”だと後から分かる)。気分が悪くなるほど長くなくてもいいような気がした。
吸い込まれ始めたのは秘密が描写された時だ。それを見て主人公はそっとドアを閉める。何故?、激高しないの?と主人公より気分が悪くなった。でも現実はむしろそういうものかもしれない。目の前で展開していることを現実とは思えない、思いたくないと思うものなのかもしれない。
”最近出来た近所のイタリアンのお店美味しいと評判なの。特にムール貝使ったパスタが美味しいらしい。行ってみようよ“”今日仕事で失敗しちゃった”とか軽い調子の会話が成立しないような空気感。仕事のみで繋がっている感覚。性生活も仕事に繋げている感覚は特殊だ。だから許していたのかとも思う。
出会い
ワクワクするようなことや反対に最悪の経験等、同じ様な体験をした人に魅かれるのは分かる。その体験が痛みを伴うヘビーなものであればあるほど繋がりが深くなる。共依存ともとれるものなのかもしれない。共依存は良くないという人もいるだろうが、自身はそうは思わない。相手とのバランスが取れていればそれが自然だと考える。互いに協力し合うのが人間。無理なく補い合えれば良いのだ。
そういう意味では年齢差や仕事での立場、生活レベルは関係ない。主人公とドライバーの二人の”静”が心地好かった。
新鮮
何十年も人間やっていると年数に応じて当然のことながら現実世界、映画、言葉に”既視感”が増えてくる。その分だけワクワクが減っていく。
そんな中この映画で久しぶりに胸に衝撃が走った。”正しく怒る”というセリフだ。
主人公が妻に後悔していることとして叫ぶ。
怒ることはとても疲れる。面倒くさい。どうでもいい人には怒らない。関係を断ちさえすればいい。大事な人だからこそ怒らねばならない。タイミングも重要だ。その時その場所で感情的にならないよう注意しなければならない。
二年程前自分が体験したことをそれに重ねた。人から憎悪と思われることをされた時一瞬自分が100%悪いのかなと思ったことがある。そしてされたことをなかったことにしてしまおうと思った。その方が一瞬でも楽だから。でもYouTube動画等で色々な言葉に接し自分をそこまで落とすなと思いとどまり“正しく怒った”。それでもこれまでそれで本当に良かったのかなぁと思うこともあった。ブレブレだった。今この映画は“それでよかったんだよ”と言ってくれているような気がしている。後押しされた。心が軽くなった。