少し前アントニオ猪木氏の最後と思われる動画を観た。YouTube動画に上がっていた。昔とはまるで違う風貌を見て衝撃を受けた。

超人

大体の人が死の間際の姿を見せたくないものだ。

30歳過ぎで癌になって入院している友だちに会いたいと強く願っても会ってくれなかった。その時は悲しくなった。でも今は彼女の気持ちが分かる。綺麗な部分だけを覚えていて欲しいと自分も思う(癌が分かった時点で会いに行けばよかったととても後悔している。その時は育児で大変でしかも飛行機での移動が必要な距離に住んでいたからすぐには行けなかった)。

見せたくない理由がもう一つあるのだとすれば、自分と見舞いに来てくれた人との差を感じたくないからなのかもしれない。これは30歳過ぎで亡くなった父の実の弟が見舞いに来た父に”どうしてお兄さんの元気を分けて貰えなかったんだろう”と呟いたと聞いたことからそう感じた。

身体を動かすのもきつい状態が画面から伝わってきた。もしかしたら猪木氏は息をするのもしんどかったのかもしれない。そんな中人とカメラを入れて生きるということを伝えている強さが心を揺さぶった。カリスマ性を感じてはいたものの特に自分の心に響くものはなかった。でも今回、偉大な表現者であっても躊躇することをやってのけたアントニオ猪木氏に初めて心を打たれた。

いつか天国に行く時自分もその強さを持っていたいと思った。

一日を大切に

昨年検診で腫瘍マーカーが基準値を超えナーバスになった。眠れない日々が続いた。その時もし万が一腫瘍が無かったら今まで後回しにしてきたことをやると心に誓っていた。にも拘らず、喉元を過ぎればとよく言うが自身もその例に洩れなかった。

今回アントニオ猪木氏の動画を見て改めて心に誓った。後回しにしてきたことに着手すること。自分とのその約束を一歩一歩進めようと思う。挫けそうな時はアントニオ猪木氏に”応援”してもらおう。

写真

先日の伯父の葬儀出席の為久々母と弟の家に泊まった時の話。

写真を撮りたいとスマホをかざすと母は百パーセント嫌がる。今回も数枚撮った写真をLINEで送ったら母はその場で一枚だけ残し、他の写真を消去した。寂しかった。つい、”お母さん、写真写り諦めてないの?私はとうに諦めてるよ”と言った。”諦めてる”というのは少しでも綺麗に若く美しく映るのをというより、残念に思う気持ちを認めてるという意味だ。

同年代で母のような感覚の人が普通なのか考えてみた。友人の母親の様子も聞いてみたが抵抗することないそうだ。母の話を聞いて逆に驚いていた。

姿かたちより”楽しむ”ということにフォーカスしたいということをその時伝えた。母は努力はしないけれど姿かたちを重んじるみたいで少し残念に思う。もしかしたら何かトラウマがあるのかもしれない。

いつか母の笑顔を写真に撮りたいと思う。

自信

ありのままを人に見せるのは苦手だ。自信がないのだと自覚している。

ただ今と少し前と違うのはそうありたいと強く思っているということだ。

一日一日を大切にと毎朝声に出そうと思う。