アマゾンプライムで綾瀬はるか氏のドラマ「ひとりでしにたい」を観た。選んだ決め手は”綾瀬はるか”だ。タイトルが彼女のイメージとは全く違うことにも惹かれた。

ドラマは老いを受け止め早めに終活をするよう促しているようだった。普通終活はそれに近ければ近い人ほど取り組むべきことだと捉えていたが、ドラマでは”近い人”の方がむしろ取り組んでいないことが描かれている。明日も同じ日が続くとのんびり過ごしている。ふと母のことが頭に浮かんだ。後片付けを周りに任せて逝ってしまうつもりだと母から言われたことがある。あっけにとられた。でも努力して欲しいとも直接言えずにいる。

そんなこんなでドラマを楽しんでいると第三話を観終わった後で次の作品が流れてきた(この作品は第六話まである。その時点では次の配信まで二週間あった)。それは作家佐藤愛子氏の作品「九十歳。何がめでたい」をベースに作られた映画だった。観終わって本を読みたくなった。以下ネタバレ注意。

エネルギー

まず本を読んで感じたのは映画同様、年齢を感じさせない彼女のエネルギーだ。もしかしたらそのもとは”怒り、もどかしさ”からではないかと思えた。世の中で起こっていることを身近に感じ、論ぜずにはいられない質なのだ。アツい。

日々のことはもとより、日本全体の問題について考えているから頭はボケる暇がない。違和感をそのままにせず表現する。頭がキレッキレで恰好よい。映画でこの本の受賞会見シーンで佐藤愛子扮する草笛光子(90歳)があけっぴろげで誰にも忖度せず発する言葉が強く印象に残った。あのように発言出来たら気持ちよいだろうなと憧れる(草笛光子以外彼女の役になれる人は存在しないと思った)。

少し前から”仕様が無いなぁ。だって年齢が年齢だから”と若者から思われてるだろうなぁとこの年齢になって感じることが多くなってきている。例えばデパートのショップ店員などだ。子どもたちからも漂ってくるから他人からは当たり前だと思う。佐藤愛子氏のようにハッキリ表現できたなら少しスッキリするのかもとしれないが。

以下色々エピソードがあるがその中で昔を思い出すきっかけになったものがある。それをいくつか話そうと思う。

井戸

今はほとんど井戸は使われていないと思う。自身が生まれて物心ついた時にはもう蛇口をひねれば飲み水が流れていた。それを便利なものと意識せず毎日送っていた。だが母方の実家に行った時うろ覚えではあるが確かポンプ式?井戸があってそのレバーを上下に動かし水を出したことを思い出した。今思えばそこは自分の実家より今は大きな町になっていてその中でも高級住宅街(と言ってもその地域ではだが)なのにどうして当時は実家よりインフラが普及していなかったのか不思議に思う。

当時小学生低学年だった自身は井戸に吸い込まれそうになる感覚やレバーを動かせば水が出てくることに夢中になった。日々の有難みを感じるよりアトラクション感覚だったと思う。

有難みを感じ感謝するのは当たり前のことだと思うがなかなか出来ていない自分がいる。佐藤愛子氏に怒られそうだ(>_<)💦

仮装

真似したくなったことがある。

孫との仮装だ。孫は生まれてないしその気配もないから孫じゃなくても馬鹿をやれる友だちがもし出来たとしたらやってみたくなった。ふざけるのがもともと好きなのを思い出させてくれた。

小学6年生の時部活で体育館に泊まることになった。夕食後余興をグループごとに出すことになって迷わず当時流行っていたコメディアン?のドリフターズ、加藤茶氏の”ちょっとだけよぉ”を提案し実際皆で舞台の上で寝そべって足を上げセクシー?にポーズして見せた。ウケけたと思っている(#^^#)

ふざけることを良しとしない家庭だったからその時爆発したと思う( *´艸`)

佐藤愛子氏とその孫娘との仮装写真はあこがれだ。因みにこれは映画で表現されていたことだ(本には書かれていない、と思う)。

グチャグチャ飯

”ハナが死んだ”から始まる「グチャグチャ飯」は不思議な話だった。映画よりも文章の方がぐっと来た。涙が出てきた。

ハナとの出会い、関わりなど語られているが、ハナは佐藤愛子氏に若干邪険に扱われているのじゃないかなと思ってしまった。実家で飼っていた家犬黒ラブとの比較で感じた(実家に帰ると毎日散歩し、悩みを聞いてくれていた。本当に分かっているかのようだった。自身も彼がどこが痒いのかとか、もっと遊びたいとか短時間しか触れ合っていないのに分かるような気がしていた)。というのは基本外犬だったこと、ご飯の用意以外構ってあげていないことを文章と映像で察した。

このエピソードで上記の井戸ポンプがあった母方の祖父母に飼われていた”チビ”も思い出した。彼のご飯はグチャグチャ飯だった。大きく違うのはご飯を出す祖母に強烈に懐いていなかったことだ。牙をむいていた。相性もあるのだろうが信用を失う”事件”があったのだろうと思う。飼い犬に吠えられる祖母に自身が懐くはずもない。この文章を打ち込んでいて妙に納得した。

ハナの死後娘が親しくしている”霊能のある女性”(映画では違う設定だった)が「ハナちゃんは命を助けてもらって本当に感謝しています。あのご飯をもう一度食べたいっていっています。」「これはなんですか?グチャグチャしたご飯ですね?」と言ったと娘からだろうか聞いた時に涙が溢れたとあった。不思議な話だ。

ハナは一緒に遊んでもらえなくても佐藤愛子氏の愛情を感じていたと思えたし、自責の念を抱いてた佐藤愛子氏もまたハナに愛情を持っていたことが最後の文章で感じることが出来た。心が温まった。

TikTokで過去TVの動画が切り取られて流れてきた。

街角インタビューで年齢を聞かれた男性が50代だと言うがどう見てもそう見えないインタビュアーが生年月日を聞いたら90代だということが分かった。認知症を疑ったがTVに出ているということはそういうことでもないのだろう。

生前の父が黒ラブを散歩させていた時声を掛けてきた人が父に”おじいさん”と声を掛けたそうだ。その話を食卓で母や叔母に話すと皆ショックだねぇみたいな話になっていた。傍で聞いていた自身は???。フォルムはそうでしょと心でツッコんだ。自覚ないんだと逆にショックだった(それを受ける若者側の気持ちも分かる)。

買い物行ったときに母がウィンドウに写った自分の姿を見ておばあさんだぁとショックを受けたと残念がった。年齢を重ねる過程でその努力をしない選択をしているのに仕方なしと思うのではなく大きく失望するのかとこちらがショックを受けるという不思議な構造を経験した。

一般に高齢とされる人たちから漏れ出てくる年齢と心の年齢のギャップに今まで何度も驚かされてきた。90歳を超えた佐藤愛子氏もまさかそう感じているとは思わなかった。

佐藤愛子氏は90歳を超えて花粉症が治ったことに喜んでいられないという文章があった。アレルギー反応が起こる体力がなくなったということらしいのよという友人の言葉を思い出し完全婆ぁになったとショックを受けている。

フォルムは死に向かって変化しているが年齢を80年、90年重ねても誰しも心は(魂は)若いのだ。若くあろうとするのだ。年齢にふさわしい振る舞いをするよう努力するより自分の思うまま自由に発言したり、社会問題への意識を常に持ち続けた方が確かに刺激がある。エネルギーがみなぎってくる。

変に年齢を自覚するより健康年齢がずっと伸びる。現在100歳を超えている佐藤愛子氏がこの本で教えてくれている(終活しつつ、出来るだろうか)。